2012年08月16日

盆が去る

盆が去る
盆が去ってこの夏もいつの日か、終わる。この盆の間に宮部編集の清張短編集下を読んだ。とても切なくて苦しいんだけど読み続けてしまうのは、宮部の編集法にも起因した読む観点があるからだと思う。もちろん清張の惹きつける上手もある。「骨壺の風景」はジワジワと過去の思い出を甦らせながらも市井の人の歴史に敬意を表し、苦しくても生を全うした人への尊厳を語っている。「帝銀事件の謎」は非常に面白く読めた。納得の一言。他もジワジワとくる物語の集まりだ。今の時代こそ必読の書である。墓の下には人生が一杯詰まっている。南無阿弥陀仏
 新聞で気になった記事が有ったので、書く。静岡新聞8月8日、脱原発デモの行方(下)経済学者:池田信夫である。「覚悟なき愚者の行進」と断定するところが、インパクトのある題だけど、愚者と言い切るのはダメと私は断定する。ところで経済学者は何故右肩上がりの経済が必執であることを説くのかが我々愚者には解らない。拡大し続けなくては何故いけないのか?何処かにその皺寄せができるんじゃないのか?誰かが誰かの犠牲になることは是なのか。サンデル教授みたいな問題になってきちゃいました。
 日時は切抜かれたので不明だが、「芥川賞に決まって」鹿島田 真希の「作風は変わっても軸は変わらない」のコラムが良かった。音楽の勉強をしたことが彼女の現在に大いに役立っているという話。和声のスケール(コード進行の規則)とソルフィージュ(音の書き写しと楽譜を自分の声で奏でる)が小説を書く上で、構造や形式、そして主題を一致させて表現していくことが、音楽も小説も一致しているというのである。何事も何かを成すためにはしなければならない基礎が有る。建築もしかりである。建築家も設計図をくちづさんでいるけど、近頃は恥ずかしげもなく大声でのオンチな歌が響き渡っている。そういう時代なのかね。



Posted by 新茶 at 11:56│Comments(0)
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