2014年09月30日

文楽



日曜日(長野から帰った次の日)には菊川のアエルに文楽公演を観に行って来ました。一年に一度の静岡公演ですから外せません。今年は昼の部を家内と観てきました。曽根崎心中と義経千本桜です。夜の部を観れれば菅原伝授手習鑑が観れたのですが・・・。
 ちょっと前に橋本治の「浄瑠璃を読もう」を読んだばかりだから、多少は頭に残っていてあー、そうだ。と解かったように頷けると推測して観れたかもね。「義経千本桜」の道行初音旅はフィナーレぽく、総出(太夫3、三味4)の音楽祭でした。人形、太夫、三味の絡みがジャズの絡みと似ています。相手を気遣いながらも自分を出す。そして相手もそれに呼応する。自分の場面ではここぞ、とばかりに意表を突く。失敗は許されません。その為に必至に自己研賛を積むんですね。思いっきり表現している演者たちを観るのは気持ちのいいものです。
 来年は「団子売り」「心中天網島」と「絵本太功記」「日高川入相花王」だそうです。何時の日にか大阪の文楽座で・・・と思っています。




このサイズで広い舞台を使います。観客は歌舞伎になると、アップで見る。文楽では引いた感じになります。背景の書き割りもそれに応じています。人間と人形のサイズの差です。

遊女お初どすえ。徳兵衛の失敗ゆえに死なねばならぬと思い込む女。なんだかなー?  


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2014年09月29日

長野の友に会いに



卒業論文のグループが長野に集まりました。何年振りなんだろう。兎に角嬉しかった。昔の面影が行動の随所に観れるのが面白い。別にどこでも良かったのだけれど、玉井さんの長野にした。初めて特急の「しなの」に乗った。鉄っちゃんじゃないけど、降りて写真を撮った。



まず善光寺にお参りなんだけど、その前にそばを食べた。大もりをね。フーってな感じの腹になりました。そして仁王門。光雲の作です。多分すごく緻密なんだ。運慶快慶とは違うだろうけど、違いは解からない。山門より仁王門の方が参拝者の心臓を掴みやすい。仁王門で覚醒させて、山門で鎮める。



三門を抜けて本殿。まあなんというかデカい。恐れ入りました。玉井さんがこの内部で工事を担当しただなんて、恐れ入りました。破風の漆は風雨で剥げてきます。下の唐破風はまだ大丈夫ですね。そして生涯二度目の胎内くぐりをしました。暗くて信じれるものが手の先だけというのも、意味ありげで良い体験です。



東山魁夷美術館に連れて行ってくれました。入り口で二人。左、玉井君(長野)右舛井君(水戸)もう一人の啓ちゃんは事情により欠席。




谷口吉生の設計で極めてソフィティケーテッドで直截で空間を消し去る手法です。中庭の水面の揺らぎが自然で心地よいのだ。魁夷の作品でおそれいったのは、唐招提寺の襖絵の下書きで、何枚も何枚もズームを繰り返した手による習作でした。で、良く観たら、他の作品も同じ様に出来上がっていることに気付かされました。すごいですねー。でもね、そのラフスケッチのラフさがとてもこちらの琴線に触れるんですね。たまらないです。



玉井君が長野市内で藤森先生の住宅作品を探してくれました。やはり、藤森先生らしい、手の跡が満載の住宅でした。この後に玉井君の家に寄って奥さんを囲んで積もる話をしたのち、松代荘に行って風呂に入って美味しい食事をして寝ました。一杯話しをしました。朝も鉄分硫黄の風呂に入ってから出発。

北野美術館に行きました。日本画、油絵、彫刻と美術全般のコレクションはさすがです。しかしながら、観るのに夢中で写真は疎かになりました。一階の日本画では抽象と具象の狭間を右往左往し、へたうまのうまをいかにすくなくしながらも絵にするすごさ。絵画の狂気です。二階の洋画と彫刻では肉体と眼で見た現実こそが美学という怪しさを学びました。というか勝手に思い込んでいるんです。木村荘八には脱帽でした。筆に弱い伊久美です。ゴメン、結局解からない。でもいいのだ。補足:忠良の帽子もあるよ。



小布施に移動して、お昼はリッチな桝一のレストラン。何十年も前に来た小布施です。土日の小布施は栗の季節で、渋谷みたいです。焼肉と鯛の汁、栗おこわ。これまた北野建設なんだよね。ほんとに美味しかった。でも時間を逆算すると足りなくなったので、帰路につくことにしました。また逢おうね。



帰りの電車内のシルエットに詩情をみてしまいました。と言いたいところだったのですが、この数時間前から御嶽山が噴火したんだって。まったく知らずに、知らされずに、電車は走っていました。車内も静かでした。玉井君ありがとう!奥さんによろしく。












  


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2014年09月23日

ピース



「ピース」樋口有介:著 中公文庫 を読んでしまいました。表紙(畑中純)で気軽に手にしたのですが、なかなかの優れものでした。殺人事件です。渋い刑事さんも出てきます。がしかしです。話の展開や、じっとこらえている風体の坂森と梢路の二人が何とも言えない魅力で引っ張ります。こういうのって今の時代では受けないんでしょうが、すきです。このピースというテーマも普段、事件のニュースを見ているときに感じる事です。のべつ幕無しにテレビに毒された軽率なヒエラルキーに載った人間の姿なのですね。

昨日うなりやべべんさんが豊田小に来たんだね。聴きたかったなー。惜しい。  


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2014年09月17日

古典芸能





静岡新聞です。上は徳山の盆踊りの取材と吉川裕子先生のコメントが載っている。古典芸能の未来というか行く末を暗示していながらも、伝承という形がどんな形に変わってゆくのかが楽しみでもあります。ビデオ記述等そして口伝。少子化。8月15日はなかなか出掛けられないものです。来年は奮起して。

下は、ドゥダメルの記事です。左のCDはボントロさんからもらったユースオーケストラのFIESTAです。このなんとも楽しい天才たち(エル・システマ育ち)の音楽を指揮していたのがドゥダメルなのです。だからドゥダメルといえば音楽を楽しく、乗って聴き演奏するものというイメージがあるのですが、この記事は違った方向をも提示しています。このクラッシック音楽そのもの(媒体として)が今、変革の時期にあることです。どんな風に変わるのか凡人には想像も着かないのですが、ラテンの明るく能天気な側面の裏にも影がじわじわと忍び寄っているのだ、この難しい未来を天才たちが、どう料理するのか見ものです。古典と未来。オプチニストのみが未来がみえるのだ。因みにウィーン・フィルと日本に来るようです。イイナー。チケットはスンゴクタカソー。徳山は祝儀だけ。  


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2014年09月16日

シンデレラ・ティース



「シンデレラ・ティース」坂本 司:著 光文社文庫が瞬く間に終わりました。とにかく読みやすい。あの「和菓子のアン」の著者です。以前にもひきこもり探偵を何冊かを読んで、ここに書いた気がする。日常の些細な出来事の裏にある思いやりや、恨みはたまたは、恋心をさりげなく描いています。殺人事件でなくとも哲学が書けるし、人の本当の心は描けるのです。それは人間描写の達悦した筆さばきや、人間観察が地に足の着いた、教条主義でない心理学が根底にあると思います。近頃のテレビに登場する心理学者は聴いていられませんね。まあ、それはほっといて、人ってほんとに色んなことを思っているのですね。今回は歯医者さんのアルバイトをする女子大性がいかに社会に溶け込もうとするか、自分の位置の獲得の仕方を描いている、と読みました。ここ何年か歯医者さんに行ってないなあ。歯石がいっぱい着いていると思うのだ。そのうち(痛くならないと行かないんだよね)行こう。この本を読んだあとでも、歯医者さんは苦手なのだ。

  


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2014年09月12日

葉室麟



「風渡る」葉室 麟:著 講談社文庫 を読んだ。実は7月の竹生島に出掛けた頃にも読み進んでいました。黒田官兵衛なのでタイムリー過ぎてコッパズカシくて黙っていました。それにキリシタン武士なので遠かったのです。しかし、この時代の風を葉室風に読めば不思議でもなく当たり前のグローバルでもあったかもしれないのです。いまの時代に生きているからこそ、私みたいな、こんな屁理屈がまかり通るんですね。武士として彼方此方の大名に仕えることは、相当のズル賢さを持って居ないと出来ないことです。そのうえキリシタンだもんね。ズル賢い裏がキリシタンだったのでしょう。官兵衛と明智光秀の扱いは非常に良く出来ていると思いました。徐々に何かあるなと読んでいて気配を感じていました。官兵衛の失策です。

ザビエルからバリニャーノまでの宣教師達の行動とは一体何だったんだろう。鉄砲の伝来だけ?何か落としていったもの。遠藤周作の「沈黙」はこれまた「日本のキリシタンとは」に思いを巡らすのには最適です。キチジロー!  


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2014年09月09日

橋本治とフランク・ロイド・ライト



「ひらがな日本美術史」の漱石、鴎外の棲んだ住宅の写真に恋焦がれて、そしてライトの帝国ホテルに逢いたくて明治村に行ってしまったのである。例によって朝5:20に藤枝駅を出発。幻想的な朝焼けだったのでシャッターを押したが、ブレていました。でもこれまた幻想。



同行の二人が尋常小学校の入り口で離れながら立つ。なぜか遠慮。風邪がゆきすぎる、外部でもない内部でもないホール。今始まった構成ではないのだ。



漱石鴎外の住まいの玄関、慎ましくてもどこか外さない。



念願の庭からの縁側の全景写真(ひらがな日本美術史)は他の訪問者とか小道具で撮影出来ませんでしたので、違う角度から日本の正しい縁側をパチリ



これ見よがしの無い極めて慎ましい季節に合った軸



旧三重県庁。まるで書き割りの様な松の育ち方と漆喰の白さが清廉潔白と純情なる明治人の気迫を表現しています。ホントカイナ



北里研究所の北方アールデコ。論理的技術や科学が結核と闘ったのだ。信じる者は救われる。



西園寺公望邸。興津に在ったんですよ。数寄屋とか現代建築は浮遊するのだ。



村野藤吾をちょっと頭に浮かべちゃいました。



露伴邸の玄関。日本建築は透ける空間に律儀なフィルターで連続してゆくのだ。竹の花入れかと思ってみれば陶器でござった。




焼津の八雲邸ですよ。2階に手摺がとてもいいね。やみに灯る明かりと障子がこれまた、正しい日本じゃん。




わたしの人生の記念碑的一日のFLライトなのだ。あんなに饒舌にしゃべっていたのに、なにも書けない。言葉が浮かんで来ない。





ライトは光と影でした。カーンもそうだね。ポール・サイモンのフランク・ロイド・ライトの歌が聞こえてきました。so long


9月8日はライト記念日
おかぴー、K2ありがとう!




  


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2014年09月07日

低反発








「低反発枕草子23」平田俊子
稲葉真弓さんという平田俊子さんの知人が亡くなられてその時の状況や気持ちが手に取るように見えてきます。二人の間柄もあーなんだろう、こーなんだろう、と想像します。あちらに行ってしまわれた稲葉さんは、こんなに思ってくれた人が居てサゾカシ幸せだと思います。平田俊子さんていうのは多分激情家なんじゃないかと思い始めました。失礼かな?

よもっとの養老先生です。自分と他人をどう区別して表現するのかって、のは難しいことなんだてな事が、綴られています。自分の事は英語だとIで一つ。日本語だと数えきれないほどある。「己」についてはこれまた面白い。「手前」もね

例によって書評の書評でなく追随で今日は興味を惹かれるものが多くありました。国内ミステリーの「水底の棘」書評に引かれて買ってしまいそう。文庫が出るまで待つかもね。「教養としてのプログラミング」もバタバタ二度手間や無駄なお金や行いをしないためのプログラムを、要するに計画だということですね。「日本史・世界史同時比較年表」これは欲しいと思っています。音楽、美術の芸術年表も掲載されていなければ意味をなさないのだけれど、大丈夫かな?「消費をやめる」は私にとってはタイムリーで、一体私と社会とはどんな繋がりが有るのだろうかとふと思ったこの頃なのです。まさしく「小商い」故の社会観です。「弱いつながり」の東浩紀さんもベクトルが変ってきました。新聞もまた自分を映しています。この自分とは私のことでーす。


  


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2014年09月03日

チャーリー・ヘイデン



チャーリー・ヘイデンが亡くなって幾つの日が過ぎて、この左のCD「ミズーリの空高く」を聞いていたら、すごい人だったんだなってことを実感しました。キース・ジャレットやリベレーションMochの曲を聞くと多少なりとも云わんとしていることが、薄々理解していたのですが、この癒しの音楽の中にこそ、固有のヒューマニズム、の答があると思います。叙情だけではない何かが。じっと聞くことも大切なことです。右がキースジャレットの「生と死の幻想」です。同じトリオでの「スタンダード」や「星影のステラ」ではチャーリー・ヘイデンの存在を意識していなかったのですが、振り返って聞けば確かにこのベースは揺るぎのないチャーリー・ヘイデン独特の音なのです。このウッドベースは強烈な個性の表現だったのですね。

  


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2014年09月02日

蜩の記



「蜩の記」葉室麟:著 祥伝社 を読んだ。
葉室燐の腰の据わった緊張感が満載で、落ち着いた時でないと読めません。冤罪の不義密通により三年後に自刃を命ぜられた武士(秋谷)を、犯した罪の償いとしてこの武士を監視する役を担った若い武士(庄三郎)が、なにを見てなにを思って、なにをしようとするか、がテーマであるが、人を思う心が通奏低音として流れている為に何処か、片隅に信じきれるものがある。読者は持っていき場の無い不安を文中から推測してしまうために前に進むのを躊躇われるが、そこで躊躇ってはいけないのだ。その、人である純真な思いを信じて読み続けるのだ。その山を越えてこそ葉室燐の真骨頂は発揮されるのだ。多分この躊躇いは小心者の私だけでしょう。事件の真相の裏側もこの時代の地方の藩の特色が表れていて秀逸です。豊後の羽根藩という設定です。それにしてもこの時代の百姓という身分は過酷な人生を強いられていたし、その末裔の私はなんて脆弱な人間に成り果ててしまったのだろうか。葉室麟はいつもこちらの姿勢に喝をいれます。この後、葉室燐は「潮鳴り」という作品で同じ羽根藩の武士を描いています。読みたいですねー。でも今、あの黒田官兵衛の「風渡る」を読み始めたところです。前回の山本兼一のバテレン達が色を添えています。宣教師の描き方が少し違うのもまた、たのしからずや です。  


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