2014年06月30日

参勤交代



土曜日に「超高速 参勤交代」を観てきました。題名だけでもうドタバタが判る。参勤交代という理不尽な締め付けに四苦八苦していたであろう磐城地方の藩が、この参勤交代から帰ってきた日に、金山の嫌疑をかけられて、老中からもう一度参勤交代を申し付けられる。(藩の取潰しの策)なんてこった!普通八日も掛る工程を五日で来いと、大体に於いて参勤交代に係る経費は今で言うと何億円もかかったそうだ、だから有りえないんだけどね。この映画の面白いところは、このうろたえ方なんですね。さあどうしよう、まあみてのお楽しみです。浅読みすれば、理不尽な官僚(私腹を肥やす為なら民などいくらでもこき使えると思っている輩)と民あってこその武士と心得る藩主の戦いである。でもこんな民主主義の藩主など幻想でしかないんだけれど、描くのは構わないし、私は大好きです。本でもしかりです。古代から現代までこの上下関係は無くならないんでしょうね。ずっと下層民の私ですが、これは自分が至らない故の結果です。島田の蓬莱橋が出てくるけど、柱脚のコンクリートパイルはCG処理しているから安心して下さい。儀式と日常、ハレとケ、建前と本音、では江戸時代はまさしくクリアですね。単純なエンターテイメントでも一生懸命さが伝わりました。

 今朝(30日朝)のサッカー(ギリシャvsコスタリカ)はギリシャの勝利を願っていたけれど、負けてしまいました。闘い続けていた38歳のゲガスがPKを外しました。年長者に思いが行ってしまうのは私が年寄りだからです。カウンターのサッカーに対処出来る守備とカウンターで攻撃が出来る事は世界で戦う以上では必修科目です。日本のサッカーは、いざ!というときのウロタエ方にセンスが無いんだよな。余裕が、実力が物語っているね。エラソー?

文楽のチケットを取りました。9月28日です。
  


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2014年06月26日

藤沢周平短編集2



「闇の穴」「夜消える」藤沢周平:著 新潮文庫、文春文庫の2冊
前日と同じく、2冊とも下級武士や市井に暮らす庶民の切なくも悲しい物語を綴ったもの。表紙は2冊とも版元は違えど、蓬田やすひろ氏で中身の情景を的確に映し出している。この律儀な線を使いながらも裏長屋の悲しくても心に灯る小さな明かりも描いている。いい表紙です。裏長屋の庶民の暮らしと言えば山本周五郎の「季節のない街」ですが、時代こそ違え、共通するのは逞しく生き続ける人達の日々を描いている事です。理不尽な境遇を物ともせず、いや、大いに憤りながらもそれらを超えて暮らしていく様は、仏の様でもあり神様の様でも有ります。あからさまな感情や、動物本来の持つ匂いや空気、世の中から消えてきた、排除されてきた汚物を知らない、いや見ることを忘れてしまった現代は脆弱すぎて今後が心配です。作者二人の違いなど論じれることなど叶わぬことですから只読むだけでいいんです。そのうちになんとなく書けるかもしれませんが、んー、やっぱり書けないだろうね。

ヤジ問題はどうなったんだろうね。終結?いっそ公的な会議ではヤジ禁止で議員資格剥奪にすればいいのだ。

サッカーは負けて悔しいけど、力の差は歴然としていたので、やっぱりねという感じ。面白いスポーツなのにつまらなくしてしまったWCでした。でもまだ見るよ。




  


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2014年06月22日

藤沢周平



「霧の果て」神谷玄次郎捕物控 藤沢周平:著 文春文庫
八編の連作。同心の玄次郎が岡引きの銀蔵と事件の真相を暴くという、何処にでもありそうな時代物ではあるが、藤沢周平は藤沢周平らしくシミジミとした余韻を残しながら事件を終える。このシミジミの諦念観のうらにある許しや無常観にボントロさんは惹かれていたのかもしれない。新潮と文春の全てを読破していた理由からでしょう。題の「霧の果て」は末尾の物語ですが、藤沢周平らしさがこの編できっぱりと現れています。この物語だけでもいいのですが、前の七編を読むうちに人物や背景の特徴を読者の頭にいつの間にかジワジワと沁みこませています。自由とは程遠い時代の中で、武士の生き様を描く葉室麟との違いを上手く説明は私には出来ませんが、現代のこんな時代(同じ時代、同じ環境に育ちながらも言葉が通じないこともある)だからこそ信念で生きる時代物は身につまされるのでしょう。



「低反発枕草子」12 平田俊子 静岡新聞
例によって、すらすらと楽しく頷く。こんなふうに平易な言葉で読ませる術に「いーなあ」と感服する。詩を読んでみたい。

「サイちゃんの星空散歩」ディスカバリーパーク 静岡新聞
星座や星にあまり関心が無かった私に少し興味を抱かせたのはこの欄です。なにか知らなかった文化みたいなものが確かにここには有ります。地球を取り巻く小さな星の存在が美しく瞬きながら且つ、何かを無言で語っていると我々に思い込ませる不思議さがシミジミなんです。でもこの七夕の星たちは梅雨真っ盛りの静岡県では見れるのが希少です。ましてや空の汚染や地上の光が多すぎて適いません。遠い山の上からもいいけど、我が家のこの地で見たいものです。
  


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2014年06月20日

サッカー

引き分けに終わってしまいました。残念です。やっぱりスピードが有りません。それにパターン化された攻撃は読まれ易いですね。意外性は何処にも見当たりません。もう一つ言える事は、日本がカウンター攻撃をやったのを見たことが有りません。状況によっては色んな攻撃方法を使わなければ相手の守備は崩せません。だからと言ってそのパターンが進化してるとも思えませんでした。バルサのパス回し程のスピードは無いのですから。この問題が解決できないと他の国には勝てません。素人でも解るサッカーでした。鬱な日の始まり。  


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2014年06月17日

海外です



 「愛おしい骨」キャロル・オコンネル:著 創元推理文庫
20年前の事件で不明だった弟の骨が自宅の玄関ポーチに届くシーンから始まるのだ。誰が何故に殺したのか、はたまた誰が届けて来たのか。兄弟が山に入って、帰ってきたのは主人公の兄だけだったこの事件の真相は、20年後に帰ってきた兄(軍の犯罪捜査部を中途退職)が過去いや現在の村人の絡み合った謎を解明する。特異な人間達が暮らす西海岸の村では、普通に見える行為の裏側には途轍もない感情が蠢いて、その軌跡は何処かに破綻を現す。見栄と虚像と偽らざる心のギャップがもたらす事件はいつの世も、どんな世界でも起こりうることなのですね。ただしです、この本を読み進めていくのは至難の業でした。平易な文体や会話と思っていると、実はアメリカのニューシネマ風な諧謔、辛辣、ウィット、ペーソスで覆われてしまっているので、理解するのに手間取ります。海外ものはこの調子が多いので、ここ数年は敬遠していました。年寄りには堪えますが、馴れだね。他のオコンネルも読みたくなってしまいました。

 サッカーが初戦で負けたので意気消沈しています。近くのグラウンドのパブリックビューイングに行ったのだけど、日に焼けて帰ってきました。スポーツはスピードとパワーの競技ですから、あの試合の負けは当然でした。完全なるフェアなスポーツなど無くて(例えるならバスケット)それを承知で筋肉と頭で競うわけだから、闘わないといけません。サッカーではボールを持たないとゴール出来ません。ボールを取られて、見ていては負け。でもその単純さが好きなんです。あのゲームではもっと失点されていても不思議ではないでしょう。あまり進歩していないのかなー。

  


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2014年06月10日

まだ六道慧



 「甚を去る」六道 慧:著 光文社文庫
何が面白くて読むんでしょう?これだから時代小説は止められないっていうものを説明できないのだ。NHKの時代劇のシーンが簡単に想像できるところでしょうか。そして展開がアレヨアレヨという間に、あーそうだったのかと膝を叩くことになるのだ。この快感です。今回の「甚を去る」は急がずにコツコツとやればよい、という意味らしい。急いては事をし損じるという意味でもある。琵琶湖の丸池藩の藩主が父への恨み故、暴走するのだが、幕府御算用者の数之進と一角がこの藩を窮地から救う話。このように書いてしまうと、非常につまらないけど、読めば非常に面白いのである。

 「親鸞」静岡新聞連載小説 親鸞の息子への対処に暮れる嘆きの図であるが、嘆きを現すのに、歪みの景色にしている。感情の起伏が激しい時には景色も歪んでいると誰しも思い当たるかもしれない。下は親鸞が経机にむかって和讃をしたためている図なんだけど、物忘れが頻繁に訪れるようになって、時々上を向いた仕草をしている。こんな時でも袈裟を付けているのだろうか。ほんの小さな絵だけど、ため息がでちゃうのだ。



先日の稽古の後に先生から縞葦の苗を分けて貰ったので、柿木の下に植えた。涼しげだったので、以前に作った一重切の花入れに指してみた。
節の下を一センチ程切ろうと思う。

  


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2014年06月05日

RPGと六道慧



 「RPG」宮部みゆき:著 集英社文庫を読んだ。パソコンで仮想家庭を演じていた家族、それを見ていた本物の家族の反応がテーマです。唯単に面白いからと思って遊んでいる事が他人には、とんでもない悲劇である場合があること、現代ではそのようなことが往々にして起きる。自分達のエリア以外を無視することによって、自由を獲得したと錯覚する。すべての行為は全てに影響していることを学習することを放棄した結果である。先ほどゴミを集積所に置いて来たけど、カラスが網を外して付近にゴミが散乱していた。要するに、想像力、注意力の欠如、放棄なのである。他人と一緒にこの地球上に棲む以上は、多少の配慮をして生きるのがマナーなのである。だんだん何処かの国の人間のウイルスが染み込んできたみたいな気がする。
 「星星の火」御算用日記 六道慧:著 光文社時代文庫も読んだ。もう順序はどうでもよくなって、「石にあらず」より4冊も前です。越後の春海藩の世継ぎ騒動と暗殺により、子供だけの家老達と産物を狙う老中松平信明の戦いを数之進と一角がどんな策を講じるのかが見ものである。星星の火とは、小さな火でも時間をかけて大事に育てれば大きな力を持つ火に成るのだ、という漢詩らしい。山古志村の鯉が出てくるよ。


  


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2014年06月02日

磐田の府八幡神社



静岡県教育委員会の主催で磐田市にある府八幡神社の楼門現場見学会に参加してきました。久保山さんの解説付でした。最初に楼門脇の土塀が気になったので撮りました。下半分は上半分の2倍の厚みがあります。とはいえ、この風情は時間の厚みと、諸行無常を醸し出していました。



高欄の架木の端に反りが有ります。



和様で、三手先斗供だから支輪と尾垂木があり、台輪が無くて、頭貫と大斗がある。因みに400年前だそうで、県の文化財に指定されています。



飛えん垂木が反りの有る屋根の端部に行くのに従って、断面が菱形になります。これを数学的に処理できるのがすごいですね。



野垂木などが外されているので、地垂木、木負、飛えん垂木、茅負がみえるが、ハネ木、化粧隅木の複雑さは筆舌に尽くし難い。茅負の穴は飛えん垂木を止める為の座堀です。



杮葺き屋根の軒付部分の断面です。張子の虎の屋根であるが、それでも、これでもかと云わせる程に込み入っている。

各部分の名称を覚えるだけで精一杯の私ですが、その架構の意味まで知るのは実際の現場を踏まないと習得することは叶いません。名前を知ることで興味は随分と深く成る筈です。先人たちは偉大です。





  


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