2014年12月28日
いい
「教科書に載った小説」佐藤雅彦:編 を図書館から借りてきた。なんていうか、自分がつまらないフィルターを持っていることに気付かされた短編小説集でした。教科書に載っていたからといって、決して箸にも棒にも引っかからないつまらない話しだろう、という思い込みは残念な事でした。なにをこの話が面白いのかを、授業的に進めたのでは面白い筈がないのである。人の心の振幅は人前で大きな声で発言などはできなくて、一対一の対話形式にでもならないと言葉にならないだろうと思うのだ。日本の文学の愛おしくなるほどの、あーなんて日本人なんだ、と云わせるほどの情感。一つ一つが珠玉そのものであることに気付いてほしいのだ。ベンチはリヒターだけど(設定は戦時下のドイツ)話しの節回しは、これはもう日本。でも、歳を重ねないとそのフィルターを取り除けないかもしれない。でも読んで欲しい。佐藤雅彦の視点がいい。
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17:24
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2014年12月24日
蓮城三紀彦
「黄昏のベルリン」蓮城三紀彦 文春文庫を読了。東西の壁があった時代の話。壁が崩壊してから二十五年も過ぎてしまったけど、ついこの前の気もするし、随分昔の様な気もします。この物語はまだこの壁があったころの話であり、二次大戦の終結時のドイツのはなしでも有ります。リオ、パリ、リヨン、東京、と事件は嘘と嘘がリンクしてヒットラーに繋がります。有り得ないけど面白い。改めて血筋とかいうものを考えてしまいました。私の父と母、私と妻とそして息子。帰らぬ息子。パリの空の下でなにを思って暮らしているのだろう。私の血?デオキシリボネクレイアシッド。DNA。ヴィーダゼン。
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13:30
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2014年12月21日
タブラトゥーラ
「新しい自転車」タブラトゥーラを買っちゃいました。ついでに、モノンクルもです。パルドンからです。タブラトゥーラは6枚にもなってしまいました。いつも新しい局面を見せてくれて、ウキウキします。以前のを聞いても要するにウキウキするのだ。まさしく音楽だ。唄っている波多野さんはとても丸い柔らかい声で角が無くて好きです。気品を加味している犯人はフィドルの田崎氏なんだってのが解かってきました。消えていくときの音ってグッとくるね。
モノンクルの「飛ぶものたち、這うものたち、歌うものたち」も買ってしまいました。エゴ・ラッピンより白日の下に晒されて居るので、イノセント。だからといって未熟ではないそれどころか、完熟。芳醇さもみえる。近頃の若い人たちが創る音楽は、力量が飛びぬけた個性が自由の基盤の上に発揮されているように思えます。自分の描いた抽象を描くことが出来る若者たちに拍手なのだ。
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08:22
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2014年12月18日
歌野晶午
「葉桜の季節に君を想うということ」歌野晶午:著 文春文庫 を終わった。楽しかったし、どんどん進めたのだが、最期のどんでん返しがイマイチです。もっと違う結末を読者はみせて欲しいんじゃないか、普通のを。でもこれも有りです。上手いからこの手法でも行けたけれど、ギリギリの綱渡り的構成です。設定も有るわけないけど、面白いんじゃないかって思うし、もっとこの設定で書いて欲しい気もするが、やらないでしょう。そういう作家では無い様な気がする。上手過ぎると、ポピュラーな読者に不親切になるんだよね。お願いだから置いていかないでくれー。
「狂言七十番」田口和夫:編 勉誠出版 を開いてる途中、というか、あちこちをつまみ食いをしているのだ。太郎冠者、次郎冠者は漫才です。笑いの古典は形式美も備えているんだ。これを当たり前と思うこともスゴイのだ。日本の笑いにはふかーい意味があって、言葉と形に転化した倫理観がみえてきます。下品の一歩手前での美学を芸術にまで高めるのです。日本人ってすごいですねー。この本には典型的な演目がズラリと紹介されているので、是非観たり読んだりしてください。嵌ります。
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15:47
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2014年12月11日
万葉集
「はじめて楽しむ万葉集」上野 誠:著 角川ソフィア文庫 を読んだ。というか声に出して読んでみた。芸術新潮の2010、4月号も見ながらです。
「芸術新潮」では、奈良の古代からの時間と空気を読み、「はじめて・・・」では万葉人の本来の人々の心、気持ちの表現を見た気がしました。今も昔も変わらない、人を恋る、思う、気持ちが、現代人と少しも変わらないであろうことで、世界はどんなに変ろうとも人間は同じなんだ、と云う事でしょう。よく言われる倫理観なども本当は変わらない筈だと、私は考えるのだ。情熱っぽくて与謝野晶子が過ぎりました。因みに上野誠さんは30年前に懐山の民俗調査で一緒に歩きました。上野誠氏の活躍の様子はHPで見れます。
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14:28
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2014年12月07日
まほろとしんぶん
「まほろ駅前番外地」三浦しおん:著 文藝春秋が終わる。指先無の手袋が活躍。年寄りだから、ユタンポも入れ始める。生ぬるい世界に浸れる夜中を満喫。「カササギたちの四季」道雄秀介のヒューマニズムとはコースを替えて斬りこんでくる。まさに行天君の登場は三浦しおんの刃です。「多田便利店」と云う設定も「リサイクルショップ・カササギ」も同じ軽トラで世の中、いや社会に、現代に隙間を突いて登場しているのだ。そうです、地面の下から人間の感情たる本質を突いてくるのです。良い悪いのではなく、気持ちを素直に持ち続けられない社会に、自分らしく生きる術を探し続ける人を描いているんだ、と思った。
まあ、この「エフーディ」とかいう冊子を早速注文してしまった。なんにも解かってないのに、バカです。多分メンバーからして、面白いでしょう。左の「ヒア・アンド・ナウ」は面白そうに書評が書いてあるので、読みたいなって思ったけど、3024円もするんです。藤枝の図書館に注文してみよう。
飯島洋一の「らしい」建築批判が載っている。安藤らしい、伊東らしい、磯崎らしい、ツントーらしい、そんで伊久美らしいは私だけが知っている。建築家は元々こういう種族なんです。いやらしいんです、他のことなど出来ません。興津の坐魚荘は明治村のとは違うのかね?今度誰かと行って見よう。
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17:33
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2014年12月04日
水泳のパンツ
パンツを変えました。セミビキニからボックス型に変えました。左のは、いつ買ったのかは覚えていないほどズット前です。だから多分泳いでるうちに破れやしないかと不安を抱えて泳いでいました。それにこのセミビキニパンツの型はもう売っていないのです。何故だろう。新しいのは、履いてみたら、なんか腿廻りががさついているし、圧迫感があります。速く泳げる実感は全くありません(もたついて、遅くなった気分)。それに近頃は上半身まで覆われているんですね。何を隠したいのでしょう。慣れてくるまでしょうがないね。5000円もするんです。セミビキニは3000円位だったから布面積から云えば当たり前の値です。下絵2枚は帽子と眼鏡、そしてカバン。このカバンも古くて、20年以上使っている。それで、今更云うのもナンだけど、水泳のクロールっていうのは呼吸のスポーツで、おもいっきり吐けば、自然に入ってくるから、あえて吸うという行為をしない呼吸法なんですね。ここで、あえて吸うという行為に出ると、水を飲んでむせってしまい、水の恐怖のトラウマになってしまうのです。でも、思いっきり吐くことを決断して、吸う事を自然に任せる行為の切っ掛けは、やってみるしかないのです。体が浮くとかもそうで、浮かない体は有りません。こういうのも水と戯れて、自分で会得するしかないのです。山や海の自然の中で体をコントロール出来ないと、地球に生きていることが申し訳ないですよね。ちょっと大げさだけどね。兎に角、自分の健康管理はこの水泳だけなんだけど、いつまで続けられるのでしょう。6ビートの脚は諦めています。インフルエンザと肺炎の予防接種は済ませたから、この冬に向かえる気がする。 以前、母が言っていた「新一が飯を食ってるんじゃなくて、水泳が飯を食ってる」
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09:25
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2014年12月03日
道雄秀介
「カササギたちの四季」道雄秀介:著 光文社 を終えました。あの「向日葵の咲かない夏」の作者の本です。三浦しおんの「まほろ・・・」とだぶりみたいですね。この後はそのまほろ番外地を読みます。男二人、華沙々木と日暮、男二人のリサイクルショップのどうしようもない日常に起きる事件の顛末が奥深い心理の裏返しで書かれている。四季の四編を読むとこのリサイクルショップの概要が見えてきます。四編の繋がりが何とも言えずにいいのだ。ようするに道雄秀介らしくない心温まる物語です。また続編を読みたくなるストーリーです。
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14:25
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2014年12月01日
バッハ
「バッハ・ヴァイオリン協奏曲」ギドン・クレーメル、アカデミー・マーチン・・・&ホリガーを久しぶりというより買ってから何十年ぶりに聞いた。何故かと云えば自分の再生機では音がざわついてとても不快だった記憶があり、音楽そのものもこの下品な化粧臭とした宮廷バロックだと決めつけていたからです。アサハカでした。聞いた切っ掛けは「K2」のブログでハイレゾとかを読んだからです。もしかしたらこの音は今なら聞けるかもしれないと思い、CDプレイヤーに載せました。そしたらなんてことでしょう。いろんなことが聞こえてきました。まあ私の勝手な見解なんですけどね。一つは、クレーメルは音楽で思いっきり、ギリギリの枠を超えて弓を弾いているってこと、故のノイズなんです。バッハを自由に広げているみたいです。素人が解かったように聞こえたらごめんなさい。大きな音で聞くと見えてくるかも。それと、ヴィヴァルディーのベニスぽい海の雰囲気も過ぎります。おまけみたいなホリガーのハ短調協奏曲(1060)も素晴らしく甘く蕩けそうです。オーボエの音にある切なさを上手く操ってセンチメンタルというものを否定もせずに堂々と表現しています。あしの裏からジーンときます。いいですねー!民俗音楽のノイズも直接に惹かれますが、現代の楽器も演奏家により固有の表現がされていて驚かされます。クラシック音楽のフリークからすれば当たり前のことなんでしょう。音楽こそ神に近いのかもしれませんし、こういうのを眼前に見せられると西洋文明や文化の大きな蓄積にやっぱり驚いてしまいます。通奏低音の基壇に載った抒情です。なーんちゃって詩人にしかこんな戯けは書けません。
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09:27
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