2012年08月31日
ベネチア・ビエンナーレ建築展
新聞の記事から:日本館が金獅子賞を受賞です。写真、記事はネットとかで見てください。陸前高田の被災地を背景に「ここに建築は可能か?」がテーマです。廃材を使って幾つかの模型を配置しています。模型の一つに被災者交流の場を提起した「みんなの家」もあります。伊東豊雄さん率いる気鋭の建築家たちの「建築とは」のギリギリの回答が見えます。現代という日本の温床のなかでの建築行為を取り払って、生きるということへの建築での回答だと思えます。ここでもやはりコミュニケーションが提示されています。一人では生きられない!仲良く暮らすこと。これが地球の意味。すごいトコまで行ってしまいました。飛躍しすぎました。明日防災訓練で応急危険度判定の模擬実験に参加するのだ。
話しはもう一つ、静岡市が内田繁デザインの竹かごキューブのような茶室を購入したそうです。これは静岡新聞です。組み立て式で、屋内用?外でも晴れていればね。でも外で使うには鬱陶しいかも。綺麗なデザインですが、斜材はなし。400万なのだ。組子は静岡の竹細工の職人の手によるものだそうです。孟宗竹だそうですが、なぜ真竹じゃないんだろう?孟宗の方が細工に合っているのかなあ。それにしても茶室というものは遺物になっているのか?単に何かの象徴?茶の稽古をすることはその象徴の確認行為?いつも飛び散らかしの戯言で終わる。要するに何も答えられない日本人ですな。
話しはもう一つ、静岡市が内田繁デザインの竹かごキューブのような茶室を購入したそうです。これは静岡新聞です。組み立て式で、屋内用?外でも晴れていればね。でも外で使うには鬱陶しいかも。綺麗なデザインですが、斜材はなし。400万なのだ。組子は静岡の竹細工の職人の手によるものだそうです。孟宗竹だそうですが、なぜ真竹じゃないんだろう?孟宗の方が細工に合っているのかなあ。それにしても茶室というものは遺物になっているのか?単に何かの象徴?茶の稽古をすることはその象徴の確認行為?いつも飛び散らかしの戯言で終わる。要するに何も答えられない日本人ですな。
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09:29
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2012年08月29日
「誘拐児」翔田 寛
昭和21年と昭和36年の事件。誘拐されて生き延びて、そして如何にしてそんな過去を振り返ればいいのか。母と子。本当に誘拐児なのか。このテーマが全てである。過去は消し去ることが出来ないのだ、消したつもりでもいつの日かフッと甦るのだ。現在起きている全ての行為や現象は全て未来への原因と過去の結果であり、このチェーンから逃れる事は誰も出来ない。でも絆とか心の繋がりはそれを超えることが出来る。場面が二つの時代に切り替わるが登場人物のキャラが明確なので、展開がスムースである。というか上手です。時代的には清張なんだけど、余韻はすてきだ。第54回(2008)江戸川乱歩賞どすえ。読みは ショウダ カン
「何故読んだ本とかを披歴するの、自慢してるの?」って聞かれたけど、「ハイ そうです。そのとおりです」と答えておきました。私の軟弱な心理を突きたかったのでしょう。でもこの程度の攻撃は歓迎しちゃいます。コミュニケーションというものを仕掛けてきてくれたんだから。コミュニケーションの下地となるものが縁ですね。
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10:38
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2012年08月27日
談志の落語(三)
金玉医者、猫久、木乃伊とり、堀の内、九州吹き戻し、お血脈、釜泥、弥次郎、ずっこけ、花見の仇討ち、野晒し、芝浜を収録。当たり前だけど読むときには、談志のFILTERなしにはイメージを描けない。話しのオカシミをありがたーく頂戴するしかない(ここだねってとこがある)。どの話が一番というより、それぞれに面白さは幾様にも創作アレンジ出来るということである。「芝浜」「野晒し」が有名でも、時の誰かの話が話題になって有名に成るわけだから、面白みを引き出しすのは、噺家の技量である。それにしても深いなあ!ゲームでのバーチャルな偽コミュニケーションとは対局にある落語を聞く姿勢というのはコミュニケーション能力の低下した現代人に必要欠くべからずなことである。
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09:45
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2012年08月26日
しゅららぼんの2
感動屋の私目が腰痛を抱えて、とうとう行ってきました。「しゅららぼん」の琵琶湖デース。琵琶湖クルーズは期待していた通り、素晴らしい琵琶湖周景で、天気もこれ以上望むべくもない旅行日和でした。写真に撮ってもこんな景色は表現出来ないと思ったので、船上の同行者を激写する。しかしながら麗しのコッシーさんのみだれ髪の姿を撮ってしまいました。ゴメーン!後ろの二人はこの景色にご満悦のようです。この景色に出会えたのは竜神さんと万城目さんとおかぴーさんのおかげです。
「しゅららぼん」の一場面の竜神様の鳥居です。拝所は工事中でしたが、かわらけを投げる事が出来たので、300円を払って、一枚には名前、もう一枚には願い事を書いて投げました。願い事になにを書いたの?って秘密。小説中ではこのあと水を飲むんです。この景色も読後ゆえに神秘的に思えました。
長浜に戻ってビールとピザ。アルコールに弱い私も一口もらう。旨い!。ピザのピーマンのなんと美味しかったことか。
この地域独特な船板壁。再利用です。が、もう和船の数も知れたものだろうから、この壁もいつの日か消えてゆくんでしょうか。しかしこのフリーハンド的なローテクの妙技はアートです。
真宗大通寺に寄ってから、ゆう壱番街。電柱が道路上ではなく、建物の敷地内に立っていて、軒先が電柱を巻き込んでいます。これぞまさしくハイテクの妙です。電柱の揺れと建物の揺れとは同じじゃないけど、どうしてる?
「季の雲」というレストラン、ギャラリー、ホテルですが、空中廊下で繋がっていて、その下を潜って川縁まで行けるのです。美しい隙間です。このあと翼果楼でやきさばそうめんを食べて帰路
散策の途中で私事の恒例の忘れものをしてしまいました。汗を搔きながら「みのや茶舗」に行ったら待っていてくれました。感謝!同行の皆さんにご迷惑をかけました。ごめんなさい。 とにかくいい旅でした。次は冬だそうですが、キリンのように首を長くして待ちます。
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14:29
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2012年08月24日
しゅららぼん
「しゅららぼん」万城目 学 集英社
明日の予定の琵琶湖を舞台にした、万城目学の(私としては4作目の)「しゅららぼん」です。竹生島を検索していたら万城目が出てきました。早速書店に直行、在庫無なので、古本屋と図書館を巡ってようやく岡部の図書館で借りられる事に相成候。万城目のハチャメチャな設定は免疫(荒唐無稽なマンガ、冗談とあほらしさ)になっているので、戸惑うことなく速やかに(2日間)完読。石居麻耶のイラストも何処かにパロディーさを秘めていて、万城目のこのミョーなムードとはJUSTです。場面をイメージする時にはこのイラストのタッチは大いに参考になります。ネット内の書評は芳しくないのもある(落ち着いてちゃんとイメージ作ってから読み進め!と私はこれ等の無知な輩に進言するのだ。)が、これはこれでスンゴク楽しかったでごじゃる。淡十郎のキャラの設定がいい。ドタバタがしっかりと話をつなげている、これが出来ているのは宮部様としおん様どすえ。そんで舞台の石走はもちろん架空。「石走る」を検索すると、出てくる出てくる。近江の枕詞、万葉集、賀茂真淵、岡部氏、そして仮宿まで行っちゃいました。まあ何でも繋がりゃあいいってもんじゃないけど、親しみが湧いたことは確か。大津の高校のこともあるしね。兎に角、古代から中世にかけては琵琶湖周辺は大層賑やかなエリアだったんでしょう。琵琶湖は水の神様が居られるようです。大阪、京都、奈良、石走(彦根?)と舞台が移って、さて次は何処の神様?
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09:16
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2012年08月18日
吉田秀和
ボントロさんの音楽の支えとなっていた吉田秀和さんが5月22日に亡くなられて、特集が7月号になりました。ボントロさんは隈なく理解していたのでしょうが、私自身はコラムを読んでも解らない部分もタダありました。私なりに少しですが音楽への真摯な姿勢は読めたつもりです。今回の遺稿になった原稿を読んでも決して尾ひれを付けない言葉は敬服に値します。音楽(芸術)に存在する絶対的美に対して演奏家が必死に探そうとした独創的美学そのものが美なのだ。故に儚く過ぎ行く音楽を愛する、という言葉は吉田氏の信条であると思いました。芸術は神の化身かもしれない。または天国へのアプローチかもしれない。
季節には合わないけど気分だから、クラリネット五重奏を聞く、モーツァルトとブラームスだ。揺れ動く青春期の甘い夢、そして焦りや後悔を、それでもまだ歩き続ける意志を聞く。真に切なく心を揺さぶる美しい音楽なのだ。
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15:41
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2012年08月16日
盆が去る
盆が去ってこの夏もいつの日か、終わる。この盆の間に宮部編集の清張短編集下を読んだ。とても切なくて苦しいんだけど読み続けてしまうのは、宮部の編集法にも起因した読む観点があるからだと思う。もちろん清張の惹きつける上手もある。「骨壺の風景」はジワジワと過去の思い出を甦らせながらも市井の人の歴史に敬意を表し、苦しくても生を全うした人への尊厳を語っている。「帝銀事件の謎」は非常に面白く読めた。納得の一言。他もジワジワとくる物語の集まりだ。今の時代こそ必読の書である。墓の下には人生が一杯詰まっている。南無阿弥陀仏
新聞で気になった記事が有ったので、書く。静岡新聞8月8日、脱原発デモの行方(下)経済学者:池田信夫である。「覚悟なき愚者の行進」と断定するところが、インパクトのある題だけど、愚者と言い切るのはダメと私は断定する。ところで経済学者は何故右肩上がりの経済が必執であることを説くのかが我々愚者には解らない。拡大し続けなくては何故いけないのか?何処かにその皺寄せができるんじゃないのか?誰かが誰かの犠牲になることは是なのか。サンデル教授みたいな問題になってきちゃいました。
日時は切抜かれたので不明だが、「芥川賞に決まって」鹿島田 真希の「作風は変わっても軸は変わらない」のコラムが良かった。音楽の勉強をしたことが彼女の現在に大いに役立っているという話。和声のスケール(コード進行の規則)とソルフィージュ(音の書き写しと楽譜を自分の声で奏でる)が小説を書く上で、構造や形式、そして主題を一致させて表現していくことが、音楽も小説も一致しているというのである。何事も何かを成すためにはしなければならない基礎が有る。建築もしかりである。建築家も設計図をくちづさんでいるけど、近頃は恥ずかしげもなく大声でのオンチな歌が響き渡っている。そういう時代なのかね。
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11:56
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2012年08月12日
盆だな途中経過
去年の盆だなと同じ。もうじきに父が帰ってきます。きゅうりの馬に乗ってね。門口(カドグチ)に迎え火を焚いて迎えます。盆だなの飾り付けは家内。この棚とかの設えは私の役割なのだ。崩れそうな物置から出してきて組み立てる。この間に、車椅子に座った母がじっと見つめていた。この台は既製品。昔あったのは、親戚の大工さん(母の実家)に拵えてもらったのだけれど、各部が壊れたので何年か前に買ってしまった。便利すぎて上手く出来過ぎていて、なんか申し訳ない。
今日は午後から地鎮祭、夕方から中学校の同窓会、いろいろ有りますね。あちこちでお祭りもあるし、神も仏も大忙し、それに吊られて拙者も大忙し。
13日はこんな感じになりました。まさにモンスーンの古代の夏をデザインしている。去年もアジアンデザインとか云ってた。人間の想像力っていうのは果てしなく無限大ですね。家内に「おちつき団子を買ってきて」って言われたので買いに行ったら店の人は判らなくて、客の一人が糸切団子のことだと教えてくれました。用語もあちこちで違うのかな?年中行事の設えを継承していくのは、これからは、難しくなりそうです。私にしたって何も解ってないんです。今日、和尚さんが棚経で各家を廻ってお経を上げてくれる。暑いのにご苦労様です。浄土宗、法然さんの南無阿弥陀仏ですねん。たいまつは何処にあるかなあ?
中学の時の同窓会はとても良かった。3年前にやったけど、少しずつ出席者が減ってきた。出れるだけ出よう。いつかは出れなくなるから。みんな変わったようで変わってない。同じ人間だもんね。
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09:51
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2012年08月08日
贋作「坊ちゃん」柳 広司
柳広司は何冊目かは忘れたけど、流石に上手い。漱石を読んでいなくとも本格ミステリーに仕立て上げられているし、漱石の文体を真似ているので「坊ちゃん」の続きを読んでいる気になってしまいそうでした。「坊ちゃん」の中身はすべてこの物語の為に書かれていたんだとも思わせてしまいます。登場人物たちはノンキな田舎の教師たちではなく、赤シャツは殺され、この時代の風潮に染められた裏の世界を持った世知辛い人間に描かれています。ただ一人主人公の坊ちゃんのみがひょうひょうとした人物でそのまま登場している。書き出しが、親譲りの無鉄砲でこどもの時から損ばかりしている で始まるこの辺も憎いね。
伊久美さんの告白録の一部。若い時に夢中で聞いてたS&GとBilly Joelです。他にもPPMだったりする訳で、音楽の基本はポピュラー音楽です。クラシックの音楽も聞く姿勢は変わりません。感じるだけ。シンクロするだけで快感。S&Gの3枚目の最後の「song for asking」は秀逸。Billy Joelはいかにも乗りの良いニューヨークのリズムを聞かせてくれるし、PPMはギターを教えてくれた。過去に聞いた軽くても楽しかった音楽は全て私の脳の襞になってしまって消すことはできない。恥ずかしくてもこんな私を形作っている。これからも音楽告白録は続きますえー。サッカーのことは悔しくて書けない、絶句
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16:59
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2012年08月05日
「骨の記憶」楡 周平
東北の悲惨な旧家と貧しい家の昭和の歴史をミステリーにしている。濃厚かつ緻密に時代の風景や時間を描写しているので、心情を隈なく読めて、胸を打つ話にしている。根底は愛憎と金。今、日曜美術館で松本俊介を見ていたけど、何かが共通していたと感じた。時間は戦中と戦後だけど荒廃した時間の中の一途な意志である。主人公、長沢一郎の場合はある事件がきっかけで歪んだ一途さになってゆくのだけど。死ぬ前に一目見ておきたい人、一言を言っておきたいこと。・・・
僕は飛ぶよ、併図のジャケット写真はGIPSY KINGSの「MOSAIQUE」。K2さんのコメントに書いたVOLAREが入っているアルバムです。30年も前のCDだけどワールドミュージックに惹かれていた頃によく聞いていました。たまに聞くといいね。フラメンコのマニアからすればとんでもない邪道かもしれなかったけど、一時の音楽でこれでもいいのかなって思えるし、意外と心にジワーと沁みてくるのです。ラテンの情熱は確かに生命の儚さと無限の愛や魂を歌うのにぴったりです。なあんちゃって、スペイン語は判りませんが、ラテンは心と体で聞きましょう。
Posted by 新茶 at
11:16
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