2013年11月29日

パラダイス クローズド



「パラダイス クローズド」汀こるもの:著 講談社文庫
ペンネームが変、でもどうでもいい。題名は多分、密室の楽園。事件の舞台は小笠原の弧島、もうこの辺で閉ざされた世界が想起される。双子の兄弟が事件に巻き込まれる、というか巻き込んで連続殺人事件がおきる。故あって刑事も同行している。この辺が物語なんだけどね。面白く印象にのこっているのが、生命の起源やミトコンドリアの薀蓄が全体の大半に及んでいることなのです。好気と嫌気性の微生物。もう生科学の深淵なる不安定さの命というものを知る機会を得ました。寄生と共生なども瞬間だけど理解しました。ミトコンドリアは細胞という密室で酸素を食べてエネルギーに変えて細胞に奉仕しながら生きながらえています。奉仕するのに反発しないで囲われて安住の地を得ています。人間も同じで、どこかに帰属しないでは生きられないのです。架空の檻も必要なんです。一匹狼も森という囲いの中にいるんです。自由とは脳の中の産物かもね。  


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2013年11月25日

ゴシックと山口晃



今朝の静岡新聞にあの中世専門の木俣元一教授のコラムが載っていた。「ゴシックの聖堂1」。シャルトルの大聖堂のいわれとマリア信仰(世界中の人間に共通な母への思い)についてである。写真はモノクロなんだけど、2002年の芸術新潮の「フランスの歓び」特集のp168にカラー写真が載っている。前日の書評に「日本美を哲学する」が載っていて、ゴシック等の解説があり、この本を読んでみよう。新聞の連載はゴシックの歓びを知るのには好都合みたいで、2が楽しみ。

右は例により、親鸞のカット絵です。人間の表情や衣服の描き方、はたまた構図に感激です。息子の嫁涼の切り取り方、髪の流れ等素晴らしいの一言です。親鸞は日常と信仰の狭間に置かれている。話しの行く末も気がかりです。  


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2013年11月23日

第2回国際陶芸フェスティバル イン 笹間



午前中に笹間の陶芸フェスに行ってきました。大いに期待して出掛けたわけですが、気に入るものが無くて残念でした。前回には若くて情熱的に土や形色彩を語ってくれる作家が居たんだけど、今回は一人だけでした。大体において自分の気に入ったものが簡単に見つけられる訳がは有りません。ただ、自分の感覚と近い人を探せれば良いと思います。近頃は安易な表現主義がまかり通っている風な気がします。残念です。この写真のブースの安達健さんの作品は火に対する自信があり好感がもてました。3回に期待します。  


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2013年11月21日

山本周五郎



「人情裏長屋」山本周五郎:著 新潮文庫 
情というもののカタチを社会の底辺としての裏長屋をベースにして面白可笑しくかつシミジミと語ってくれる。時代物の作者は数多いけど、私は周五郎に行き着くのだ。ボントロさんは藤沢周平だった。この短編集は周五郎の語り(落語、講談)っぽいところがなんとも庶民的風情を文字で表しているようで微笑ましい一面も観れた。

「新参者」東野圭吾:著 講談社
テレビで演っていたらしいのだが知りませんでした。渋く地廻りをやり、地元の風景や事柄を徹底的に調べ上げる刑事。事件の解明には些細な事でも何かが変わっている事を見つける事。必ず何かが変わってしまった原因が何処かに現れている筈という信念。ゆえに生半可な聞き込みじゃあない。刑事ってここまでやらなくちゃいけないよね。なんのことは無い風景の中にいる人も心の中は千路に乱れているのかもよ。人の不思議です。  


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2013年11月15日

母の葬儀

11月12日に息を引き取り、本日15日に無事葬儀を終えました。生前から皆様方にはいろいろとお世話になりました。ここで皆様方のご厚情に感謝いたします。草々  


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2013年11月10日

赤猫異聞



「赤猫異聞」浅田次郎:著 新潮社 を読んだ。病床の母の脇で一晩で読んだ。消灯時間になると読むのも難しいけど、小さな明かりの下でも読み通せた。もちろん母を時々気遣いながらもです。だから今朝、日美の光悦を見た後で少し寝た。五島美術館に行きたい。戻って、この赤猫というのは火事で牢獄から囚人が解放されることをいうんですね。そして戻ってくるか否か、そこが問題なんだけどその牢屋の担当同心がいかが対処するかの話です。そしてこの文章の語りがとてもいい味を出している。終わり近くになって事の顛末が読めて、うーんなるほどって感じ入るのだけど、最期の言葉に微かに生きている母の脇で泣かされました。   ちちははのこころもて、おたのみもうす   


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2013年11月06日

宮部みゆき



「泣き童子」宮部みゆき:著 文藝春秋 である。副題は三島屋変調百物語参之続で延々と、おちかの聞き手役は続く模様なのだ。物の怪やら怪奇な話を聞くだけの娘なんだけど、聞き手たるもの話しの内容は口外は出来ぬのだ。怪奇な話だからこそ、ひとの心情が如実に現れて、心の闇を深さを知ることになるのでしょう。奇をてらった話し上手が現代ではまかり通っていますが、聞き上手は少ないですね。
 実に面白い六編の連作で、どれもがジワっと来ます。「あんじゅう」も良かった。

右の新聞の切り抜きは静岡新聞の昨日かな?「窓辺」で、杉浦文夫さんという校長先生が書いていました。ひとことで「ただ若き日を惜しめ」を言っています。漢詩からの言葉と聞いて、尚いいですねー。若者が聞いても右から左だろうけれど、届く時まで、気が付く時まで言い続けるべく言葉なんだね。二俣高校の校訓だそうだ。色や形の無い言葉っていうのは日常に埋もれやすいのだ。  若き日を惜しめ!  


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2013年11月01日

縮尻と茶椀



「捨てる神より拾う鬼」佐藤雅美:著 文春文庫 仕事や趣味に目が廻っていますが、相も変わらず佐藤雅美を読みましたが、読めば読むほど味が出てきます。あー、そういう人もいるよな、そうゆうことも有るよな、そういう気持ちもあるよなっとじわーっと思いだします。人の思いが絡み合って二進も三進も行かなくなった時にも鏡三郎は特有の行動でいつの間にか、有るべき結果にします。大立ち回りでは無く、成るべくしてなる方向なのだ。江戸時代ってのは間違いを起こすと死罪、遠島の罰が途方もなく多く下されましたから。そんなに大きな事件など頻繁には起こらなかったようですね。貧しくても平穏な生活を強制させられていたってことです。でも人間てのも感情の動物ですから争いやイザコザが起きるわけで、その解決には鏡三郎の様な思いやりが悲観でなく希望へと導く方法なんでしょう。今も同じだね。表紙は前と同じく村上豊です。中身と良く合っています。

芸術新潮の今月号で、茶碗のことが載っていたので直、レジでした。テーマは「利休と名碗」。監修は武者小路千家家元跡継の千 宗屋です。対談相手は林家晴三氏で、利休から現代までの深い茶碗の話で、我々の眼には美術館でしかふれることの出来ない茶碗の特性をたっぷり読めました。写真も秀逸です。現代物は自由故に衒いが見えてしまって恥ずかしくも感じます。  


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