2013年07月29日

三溪園



恒例の建築士会のハイクで横浜に行ってきました。三溪園、山の手西洋館そして中華街の夕飯でした。要するに違う文化を味わうハイクでした。優劣を極める程の学識を持ち合わせてはいないので、有るが儘を肯定しながら、感嘆詞を吐きながらのの弥次喜多(6名による)道中でした。いろんな考えを持った人と一緒に歩くのは楽しいものです。18キップで汽車を乗り継ぎながら三溪園に着いて、ガイドさんに説明もしてもらっての散策は知らない事も聞けるので、見るものが有意義に感じました。まず臨春閣です。正面から見たら2階部分の屋根が小さいと思ったのですが、妻面からだと不思議に合っているんですね。桂離宮を彷彿させます。兎に角、障子と黒ずんだ木のコントラストは池の斜面と山の緑を背景にして気品高く佇んでいます。内部の線構成も、堀口捨巳を虜にさせたのも頷けます。手水鉢や白い天井の胡粉砂摺りは遠州の忘筌でした。次は金毛窟



一帖台目も外からでは解からない。建築家集団ということでガイドさんから特別に拝観を許された茶室。躙り口を開けていただき、手を添えて覗くと、確かに丸柱(大徳寺の山門の金毛閣の手摺)が見える。それにしてもこの小さな空間を意味着ける茶とはなんだろう。正に非現実的な頭の中で浮遊するコミニュケーションを実体化させる装置である。



聴秋閣です、奇術満載のこのコジンマリトシタ舟の様な茶室?書院?と頭を傾げるのですが、茶室なんです。書院風で貴族の雅まで加味した茶室です。ですからディテールやコンセプトの発想は草庵ではない。遠州の綺麗さび?かなあ。写真は45度に振られた手摺の持ち出しの三手先の肘木が何ともユニークでなんかいいな!って思いました。一番不思議な建物です。



皆さんが絶賛する春草蘆です。有楽作の三帖台目の茶室。軒下が深いけど、九窓で明かりを取っているらしい。広間の窓ガラスも軽快で、小間との対比が美しい。流れて透き通る空間。





旧谷箆原家住宅(寄棟型合掌作り)なのだ。茶室を観て歩いているとスケール感が日常からかけ離れてしまうのだが、この様な民家を目の当たりにすると何故かほっとする。それに時間の手垢(育つ)がこれでもかという程堆積して闇を創り出していて、別の魂が住んでいる(座敷わらし)とまでおもわせる。民家は何かが生きているのだ。現在も囲炉裏の火をかかさないとのこと。能天気な真っ白もいいけど、闇を含んだ陰翳礼讃ってのも惹かれるんだけどなあ。正しい軒下も観れたけど、おかぴーさんの大きな背中が物悲しく見える。

三溪園の和とは打って変わって、西洋風です。日本人としてどんなコメントを書けば的を得ているのか解りませんが、面白い作りの町が出来上がった絵空事の舞台です。ウキウキして楽しいことも確かです。




おばさんを含めた地方のおじさん達の行進。そして西洋数寄屋の交番





上はライトのオークパーク風な234番館、中はレーモンドのエリスマン邸でライト風なモチーフの階段の装飾、下はオカピーさんの娘さんが結婚式をあげたベーリックホール。内開きのスチールサッシの連続。ガラスの複層がなんとも現代建築風です。



外交官の家とブラフ18番館を見たけど、私は増築部分の伊東豊雄を見つけてしまったので、目が其方にいってしまいました。シルバーハットの応用編ともいうべき構造でした。だからなんだ?と言われても、答えようがないのですが、まあこれもありなんですかねー。見終わったので中華街で飯を喰おうということで、この前寄った店を探して腹イッパイたべてしまいました。中華も上手いところで喰えば旨いんだということです。



最後に池(三溪園の大池)に浮かぶ和船に佇む鷺と鴨のシルエットが和の風情を見せていたことが印象的でした。


  


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2013年07月22日

吉永南央



「萩を揺らす雨」吉永 南央 著  文春文庫
おばあさん探偵と言えばミス・マープルだけどこの本の主人公は草さんというおばあさんです。多分群馬の或る都市?の高崎?が本拠地らしい。このおばあさんは75歳だけど、ミス・マープルと違って動きまわるのだ。チェアーディテクティブではないのだ。だから時には老人の徘徊と間違われたりもする。動きまわるうえに秘かに思っている人もある。要するに老人と言われようが人間なのだってこと。眼に映ること耳にきこえたこと触ったこと感じたこと、全てを考える人なんです。こういう風に周りに眼を配ってちょっとおせっかいな人って少なくなった気がするし、関係ない!って切り捨てるけど、なんか味気ないよなって思う。私利私欲の無いおせっかいは歓迎なんだけど、建前の公益とやらの公権は胡散臭いものが見える。
表紙のテーブルの脚が一本足りないような。



親鸞のカット絵:山口 晃
夕刻に堀川を昇る舟だね。綱を引く人夫二人と背景のシルエット。そして民家の明かり。文の中からこの情景を思い描くこと自体、恐れ入っちゃいます。私らだと、まず画けるわけないと否定から始まるけど、画家は描けることを丹念に始めるような気がする。暗闇の水面だってどうして描くの、だし、背景の輪郭だってどんな風に?って思うんだよな。とにかくいいね!です。

土曜日に杉浦邸の調査に行ってきました。下見を含めて調査は3回目です。日本建築の大工さんが洋式の西洋館風を如何にして作ろうとしたか、どうしたら西洋風になるのか、という頭の中を覗いた気がしました。作り手というのは色んなことを鑑みて、試行錯誤を繰り返すのが仕事なんですね。みんなで考えていたんだ。自分と周りの接点をね。昼食のオムライス屋のおじいさんも、しっかり考えて今までを生きてきた風体を表していました。渋い一石なおじいさんでした。巷も捨てたもんじゃない  なんてね。  


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2013年07月19日

あさのあつこ:3



「木練柿」あさのあつこ:著 光文社文庫
これは短編集で、信次郎、清之介、伊佐治のトリオの3冊目です。どうやら一息ついた感じです。幾つかの事件が起こる度に、彼らとその周りの人間の一筋縄では無い過去も露わにされて、それゆえに事件が解決されてゆく。今起きている事件も過去の筋書きの未完部分が在るが故に起きた事である。過去は未完だらけ。時間や心は生きている限り続く。
 
 


毎回の親鸞の絵です。一番惹かれるのは右下の絵です。影の塗りと色合い、構図がいいですね。右下の猫とその尻尾、フフと笑みが浮かぶと思います。他の絵も粒さに眼を凝らしてみれば、絵の中にある全ての線や点が意味を成していることに気付かれる筈です。とにかく面白い絵の連続です。

言葉と絵、そして音は自分に戻れる。文学、美術、音楽と言ってしまうと少し違う、と云うよりそこまでアカデミズムは習得していなし、独りよがりで客観性のかけらもない素人だってこと、なのです。  


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2013年07月14日

あさのあつこ:2



「夜叉桜」あさのあつこ:著 光文社文庫
前回に引き続きのシリーズ。今回は女郎連続殺人事件なのだ。同心の信次郎と岡っ引きの親分伊佐治とで、この事件になんらかの関係のある小間物屋店主清之助を起点に事件を探る。表向きでは見えない日常に、ノミをいれて暗闇に巣食った心を暴き出す。人は誰でも生きている限り心の闇を溜めこんでいる。江戸時代の市井にモガキながらも生き続けるにはその闇の一つや二つは抱え込んでいるのが普通であった。それでも、小さくても儚い希望に向かって明日もいきる。こういう風に書くと普通だけど、読んでいるとすごくいいんです。解説はあの、嬉しくなっちゃう、三浦しおん様です。。このトリオ(同心、岡引き、店主)の設定は羨ましい。互いが他の二人を評する言葉が、時々あるのだけれど、素晴らしく相手の本質に迫る言葉があって、これがいい。でね、この続きも手元にあって、読み始めてしまうでしょうね



またもや山口晃の親鸞のカット絵です。左上は鉛筆風、右上ペン、左下筆、右下塗り風です。連載されている文の一場面が描かれていますが、時代的風景や心理も的確に想起できます。ユーモラスも取り入れて、漫画風でもあります。文に差しさわりの無い程度に絵が膨らませてくれているのです。絵が潤いを加味しているんです。だから私の楽しみなんです。

母が今朝病院から帰ってきました。主屋にエアコンを入れました。10万円かかりました。鼻の管を入れたままで、介護タクシーで帰ってきましたが、帰る前に病院で「ここはどこ?」と聞きました。まったく理解はしていないけどいいんです。未だ現在と繋がっているから。  


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2013年07月13日

あさのあつこ



「弥勒の月」あさのあつこ:著 光文社文庫
主人公が三人の時代劇。トリオですね。この三人の気配の絡みが絶妙に面白い。気配のやり取りを文字で読者に伝えるなんてことは、たいへんだよー。素人からすると、あさのあつこさんってすごーいです。最初からピリピリさせて最後まで息を止めてるかのような暗闇を連想させます。でも何故か恐怖では無いのだ、そこが不思議。何処かに達悦した優しさが垣間見える、本当に微かなんだけど。
 同心、岡っ引き、店主が絡み合った殺人事件を互いに腹の探り合い、本音を暴き出そうと、丁々発止するうちに事件の核心に到達して行きます。自由という概念の狭い時代に何が生きる糧なのか、未来や希望を如何にして持ち続けていられたのか。今に時代だからこんなことを言えるけど、祖先たちがそういう時代世界で生き続けたことは尊敬に値すると思う。でもひとの心は変わっていないと思う。
 昨夜蚊、に刺されて思いっきり叩き潰したんだけど、あの小さなスケールに生命維持装置がびっしり詰まっていて。ましてや、空を飛ぶというとんでもない機能までもが備わっている、人間なんかが創り出せない高度の世界が太古の時代から続いていることに気が付きました。人間の科学的世界も眼を見張る程進歩したのだろうけど、自然界も進化しているんだね。不思議です。自然界にあるものは創り出せません。
 次の「夜叉桜」も手元にあるのだ。いいだろー。  


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2013年07月09日

山本兼一:2



「千両花嫁」山本兼一:著 文春文庫
 AKTさんが置いて行ってくれたダンボール箱の中にこの本が有りました。ありがとう!前の本よりも印象深くよみました。順序は逆でしたが、「利休にたずねよ」「火天の城」も以前に読んだことだし、順序など、どうでもいいね。この本は私の為に書いてくれたんじゃないんだろうかと思う程、興味深く読みました。幕末の京都の骨董(道具屋)を営み始めた駆け落ち夫婦に、理不尽に降りかかる禍の顛末記です。登場人物は壬生の義士達と竜馬、勝、や高杉らを含めた刀剣により骨董屋に係わる人間たちです。勿論、茶の湯に係わる話しも多く出てきます。激動の時代を絡めて京都の日本的なるものを描いていて面白いですねー。勿論主題は優しくて暖かい夫婦と、二人を取り巻く人間たちの人情味あふれる心理描写です。自分が登場人物の全てを演じているかのように錯覚してしまいました。誰でもいいから読んどくれ。
 お茶の稽古が始まったので、ボントロさんの神棚にビールを供えて来ました。暑くなってきたから飲んでるね。因みに神棚の設計はボントロさんと私の合作どす。



私が通っている大洲プールなのだ。四角い箱の上に波を模したと思われる波型の屋根が乗った建物です。全体に中庸な藤枝にぴったりの景観かもしれません。以前通っていた城南のプールに較べて深くなっているので泳ぎやすいし、水も澄んでいる気がします。(夏休み中は無理:芋を洗った水になるから)もっといいところは牧ケ谷の県営プール(50m)なんだけど700円もするんです。泳いだ後は気分が晴れやかになるし、ご飯がおいしく食べられます。  


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2013年07月05日

山本 兼一



「ええもん ひとつ」山本兼一:著 文春文庫
時代は幕末の京都。骨董屋「とびきり屋」を営む夫婦の話し。作者は「利休にたずねよ」の山本兼一です。時代を経た日本文化(香道、茶道、日本画、陶磁器など多岐に渡っていて垂涎どすえ)が骨董の世界を背景にしながら、世情(桂、坂本、芹沢が登場)を切り抜ける心温まる夫婦を描いています。山本氏の作品には和紙の様な肌合いを感じます。徹底的な悲しみや苦悩も、この薄くても安易には破れないヒューマニズムが見えます。過激や派手さは表にはみえないけど、ストーリ-には綱渡りの場面があるけど誇張しないから、気が付かないのかもしれません。いい夫婦の物語です。巻末の解説は杉本博司です。氏の日本文化への思いが読めて何故か納得。「千両花嫁」も読みたい。


 
静岡新聞「親鸞」五木寛之の山口晃のカット絵です。しつこい、かな?みて判るようにペン、筆、鉛筆とそれらの特異性を生かしながら適格なアングルで描きます。ペンでは、くっきりした輪郭を取りながらも、重なった衣服の襞の柔らかさや草木の重なりを見ることが出来ます。なんて上手に書くんだろう。としか言えません。筆画に入れた色や薄墨もいいね。まだシツコク書くつもりなのだ。  


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2013年07月02日

新聞から




上:連載小説「親鸞」五木寛之のカット絵の山口晃です。今回は「完結編」です。前回に引き続いて山口晃が画いています。鉛筆画の様な柔らかいタッチが見られて、朝起きるのが楽しいのです。この筆使いに魅了されています。話の内容の場面をイメージするだけでなく、登場人物の生臭さまで感じさせて、まるで動いて語っているようにも見えます。親鸞という人物の云わんとした生きる事の肯定を、これらの人間や背景に見て取ることができるのです。ガムシャラに生きるということ。  みわたせば、みんなそういうふうにいきてるね   我が家は法然さんの浄土宗です。でもあらゆるところに色んな神さんがいるみたいです。うちの近くの浄土真宗は蓮正寺です。浄土真宗は地の神さんや高神さんは祀らないそうです。

下:景観保全の記事で富士山と牧場の牛です。メガソーラーが景観保全を損なうので抑止しよう。と近在の市が動いている記事。新しい悪者をイメージ着けているようにも見える。現存する明らかに景観を損なっているものには眼を瞑る?何を云わんとしているかと言えば現在存在している問題を解決せずに次の問題を論議するやり方に疑問がある。風化するまで放って置く?だったらメガソーラーも何時か風化するよ。こんな私の戯言も自己肯定や自己顕示欲の冠を付けられて明日の山の彼方に消えていくね。

 

   


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