2012年10月27日
横須賀町のちっちゃな文化展
今日二度目の書き込みだけど、忘れないうちに書いて置く。

街道に入る前に寄った清水邸庭園の掘割です。すぐ南が湊だった頃の名残の掘割ですが、何回も来ていたのにこんなに風情のある景色に気付かないでいました。インパクトは薄いけど、しみじみと枯れた時間を観れます。日本の池の水面です。帰りにはこの庭内でお茶を頂きました。

街道の瀬戸物屋(代表の店)。鶏の水飲みの器も売っていました。それにしても泣けるほど時に育てられています。愛おしい田舎のおばあさんみたいな建物だよね。この後は人がワンサカ。

なんて美しい屋根だろう。もう瓦の景色だけで十分な文化です。

充分何かを満たしていたのは、この平 厚志さんの陶器でした。飯碗という単純な器でさえ、気を抜くことなくキッチリと器を仕上げています。大事な基本が出来ていると素人ながら感心しました。表現主義が跋扈する世の中ですが、プロフェッショナルとは、基本に忠実であること、この一つだけです。

商業主義をイッパイ見て消化不良を起こしてきたので、純粋な方向が見れるだろうと勝手に思い込み、横須賀高校の文化展をやっていた体育館に寄りました。思った通りに稚拙ながらも純粋でした。真似や勘違いの独走もありますが、素直で未来が有ります。この色紙はとても好きでした。色紙その物がバランス。何処か一つ違っていたらダメです。危ういけど素直。二度と出来ないかもしれない。でもそれに頼っていては先がない。

これは表現が見え見えなんだけど、そのなんていうか、やっぱり素直さだね。上手。上と同じく上手に溺れてしまうと自分の檻から抜け出せなくなる。詩の内容と字体のアンバランスがどういうわけか好き。このアンバランスさが独自なのかも。

こうゆうのが、のびのびしていて若者らしくて、笑みが毀れる字っていうんでしょう。もう筆イッパイの墨。手元に欲しくなる軸でした。

へたうま風を装う技術を習得しようとチャレンジする気構えが好きです。俵屋宗達が頭を過りました。独自のヘタウマを作って欲しいですね。上手です、パチパチ、パチパチ

基本からコツコツ積み重ねる見本かもしれない。こういう真面目な楷書を続けるのも訓練です。地道ですが、それが長いほど結果に現れます。なんて、おじさんは偉そうに批評なんぞをしてますが、まったくの素人です。
叱られそうですが、体育館が良かった。文化してました。
街道に入る前に寄った清水邸庭園の掘割です。すぐ南が湊だった頃の名残の掘割ですが、何回も来ていたのにこんなに風情のある景色に気付かないでいました。インパクトは薄いけど、しみじみと枯れた時間を観れます。日本の池の水面です。帰りにはこの庭内でお茶を頂きました。
街道の瀬戸物屋(代表の店)。鶏の水飲みの器も売っていました。それにしても泣けるほど時に育てられています。愛おしい田舎のおばあさんみたいな建物だよね。この後は人がワンサカ。
なんて美しい屋根だろう。もう瓦の景色だけで十分な文化です。
充分何かを満たしていたのは、この平 厚志さんの陶器でした。飯碗という単純な器でさえ、気を抜くことなくキッチリと器を仕上げています。大事な基本が出来ていると素人ながら感心しました。表現主義が跋扈する世の中ですが、プロフェッショナルとは、基本に忠実であること、この一つだけです。
商業主義をイッパイ見て消化不良を起こしてきたので、純粋な方向が見れるだろうと勝手に思い込み、横須賀高校の文化展をやっていた体育館に寄りました。思った通りに稚拙ながらも純粋でした。真似や勘違いの独走もありますが、素直で未来が有ります。この色紙はとても好きでした。色紙その物がバランス。何処か一つ違っていたらダメです。危ういけど素直。二度と出来ないかもしれない。でもそれに頼っていては先がない。
これは表現が見え見えなんだけど、そのなんていうか、やっぱり素直さだね。上手。上と同じく上手に溺れてしまうと自分の檻から抜け出せなくなる。詩の内容と字体のアンバランスがどういうわけか好き。このアンバランスさが独自なのかも。
こうゆうのが、のびのびしていて若者らしくて、笑みが毀れる字っていうんでしょう。もう筆イッパイの墨。手元に欲しくなる軸でした。
へたうま風を装う技術を習得しようとチャレンジする気構えが好きです。俵屋宗達が頭を過りました。独自のヘタウマを作って欲しいですね。上手です、パチパチ、パチパチ
基本からコツコツ積み重ねる見本かもしれない。こういう真面目な楷書を続けるのも訓練です。地道ですが、それが長いほど結果に現れます。なんて、おじさんは偉そうに批評なんぞをしてますが、まったくの素人です。
叱られそうですが、体育館が良かった。文化してました。
Posted by 新茶 at
20:19
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2012年10月27日
また高島哲夫
「トルーマン・レター」2004年の発刊文庫です。何処からか出現した原爆を落とした張本人、トルーマンの手紙が題材。この手紙を拾った元新聞記者が真贋を探るうちに色んな事件に巻き込まれ、酷い目に会いながら解決する、というか解決に向かう。背景には過去の恋愛。---面白いですねー、高島は時代に即した大きな、有り得ない事件を作って、事件の背景にある本質を問いかけてきます。前回に書いた、ナチスの遺伝子操作などは、生化学の持つ真実と幻想、倫理感とか神?の狭間を問いかけていました。今回は人間の中にある憎悪とか差別とかが、すべての人に在って(動物などは生存上必要、差別ではない)それらを理性や社会観で持って、色々な人達と共存していくべきなのか、憎悪と差別が何を生むかを語っています。
恋愛を下地に書いていますが、この恋愛を書くというのは書き手の恋愛観を書くわけで、書いたような恋愛を経験したわけでもなく(したかもしれない)想像の形を書いているのだろうと思うけど、読者はフーン、この人はこういう時にこういう行動をするんだ、と描いてしまいます。私だったら少し違っていたんだろうな、と感じてしまう事がタダあると思う。(これには男女の区別など存在しない、あるとすれば言い訳)その恋愛観における他人との差異が取りも直さず自分らしさの基本かもしれない。コミュニケーションの基本はここに在る?
Posted by 新茶 at
08:20
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